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近代歴史を偲ぶ―舞鶴の赤レンガを支えた「神崎煉瓦ホフマン式輪窯」

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かつて軍港だった京都府舞鶴市には赤レンガの建物やトンネルが沢山あります。ですが、それらのレンガが、いつどこで、どんな風に焼かれているのか疑問に思ったことはありませんか? 今回は、明治時代に西舞鶴でレンガを焼いていた「神崎煉瓦ホフマン式輪窯(旧京都竹村丹後製窯所煉瓦窯)」の遺構を訪ねてきました。明治の近代化を後押ししたレンガ窯は圧倒される力強さがありました。

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日本海唯一、旧海軍の拠点が作られた東舞鶴

「神崎煉瓦ホフマン式輪窯(かんざきれんがホフマンしきりんよう)」があるのは京都縦貫自動車道 舞鶴大江インターから由良川沿いを車で走ること約20分。西舞鶴の神崎地区にあります。ここに明治30(1897)年、京都の実業家・竹村藤兵衛氏が約1万余坪の土地を購入し、京都深草在住のレンガ工場主・木村宗三郎(後に山田宗三郎)が責任者となってレンガ工場が建設されました。

神崎煉瓦ホフマン式輪窯から歩いてすぐの場所にある神崎海水浴場。美しい砂浜が続きます

訪れてみると、工場があったのは由良川の河口。しかも海のすぐ側で土壌は砂地です。なぜ、この土地にレンガ工場が造られたのでしょうか。

舞鶴鎮守府 初代司令長官・東郷平八郎が書いた書物や軍艦の模型などが展示されている「海軍記念館」(舞鶴市)

明治時代の日本は、欧米列強と対等に渡り合える近代国家を作るため「富国強兵」のスローガンのもと産業や軍備の近代化に取り組み、中でも海軍の強化が進められていました。そして艦艇(=かんてい。海軍所属の戦闘用船の総称)の配備と共に明治17(1884)年に横須賀、明治22(1889)年呉と佐世保、そして明治34(1901)年に日本海唯一の護りの拠点として東舞鶴に鎮守府(海軍の拠点)が作られたのです。

赤レンガ倉庫

鎮守府の設置が決まると中舞鶴から東舞鶴にかけての海沿いの村々には大きな艦艇をつなぐ岸壁、造船所や兵器などの製造工場、赤レンガ造の倉庫や建物などが次々と建設され、国防上欠かせない港となりました。その建設に必要なレンガを作っていたと言われるのが神崎煉瓦ホフマン式輪窯なのです。

レンガの材料となる原土は神崎より少し上流の上東や下東、油江などから船で運ばれてきました。一方、完成したレンガは船に積んで舞鶴湾まで運んだのだとか。神崎が選ばれた理由は原土の調達がしやすく、完成したレンガの運搬が行いやすかったということなのですね。

大きな煙突がダイナミック

さて、前置きが長くなってしまいましたが、神崎煉瓦ホフマン式輪窯に行ってみましょう~。こちらがほぼ全景です。レンガを焼く窯もレンガ造りなんですね。想像以上に大きくてビックリ! 一見、登り窯のようにも見えるレンガ窯の全長は45mもあるんですって。一番奥にあるツタが絡まった煙突は倒壊の恐れがあることから現在、短くされていますが、かつては高さ24mもあったそうです。

昭和31年頃の写真。奥に大きな煙突が見えます(写真提供:京都府立丹後郷土資料館)

創業当初は登り窯でしたがレンガ需要が大きくなると生産が追い付かなくなり、大正末期頃、効率よく量産できるホフマン式輪窯に改修されました。働いていたのは主に福井県などの熟練工で、後に地元の人も働くようになり従業員は最高100人余りもいたそうです。

「ホフマン」とは??

一番大きな主煙突は登り窯時代のもの

ところで気になるのが「ホフマン」という名称。ホフマンとはドイツ人の技術者、フリードリヒ・ホフマン氏のことで、このホフマン氏が1858年に考案したレンガ焼成窯が「ホフマン式輪窯」なのです。
それまでレンガを焼くには陶芸窯のように窯にレンガを入れて火を焚き、火が消えて熱が下がったら焼き上がったレンガを取り出すという作業を繰り返すもので、量産ができませんでした。

そこでホフマン氏が考案したのが、窯を円形にしてしまうというもの(上図)。1つの部屋でレンガが焼き上がると、次の部屋に火をうつす。その部屋のレンガが焼き上がると次へ火をうつすということを繰り返しているうちに最初の部屋のレンガが冷却されるので、焼き上がったレンガを取り出して再び新しいレンガを入れる。つまり焼成→冷却を何周も繰り返すことができる超画期的な製法なのです。

神崎煉瓦ホフマン式輪窯に残る11本の煙突

かつて日本にはたくさんのホフマン窯があり、昭和30(1955)年には50基以上、稼働していたそうですが、現在残っているのは埼玉県深谷市、栃木県下都賀郡、滋賀県近江八幡市、そして京都府舞鶴市の神崎煉瓦ホフマン式輪窯の4基のみ。いずれも現在は稼働していませんが、11本もの煙突があるのは、この神崎煉瓦ホフマン式輪窯だけなんですって。

長いトンネルが続くホフマン窯に入ってみよう

レンガを出し入れする戸口(出入口)

こちらは外から見るだけでなく一部だけですが、中に入ってみることもできます。早速、行ってみましょう。

ずっと向こうまでトンネルが続いていて倉庫のような感じです。高さは1.8m、幅が2.8mあり、立って作業ができるぐらいの高さですね。

レンガ窯の中にいるとヨーロッパの遺跡に迷い込んだような気分になります

窯の中でのざっくりとした作業の流れを説明すると、以下のような感じです。
各部屋には壁の仕切りがないので、まず隣の部屋との境に新聞紙を合わせた大きな紙を貼って空気の流れを止ます(新聞紙を使うというのが驚き!)。そして乾かしたレンガと薪を部屋に積み上げたら戸口(出入口)を土などでふさぎ、この部屋の準備は完成。隣の部屋から火が回って来ると勝手に新聞紙が燃えて次の部屋に火がうつり、レンガが焼成されるのだそうです。

昭和31年頃の作業風景(写真提供:京都府立丹後郷土資料館)

こちらでは多くの女性も働いていたそうで、この焼く前のレンガを窯に入れるのは女性の担当。部屋の温度は下がっているとはいえ、焼き上がったレンガを出したばかりの部屋での作業は暑くて大変だったそうです。

天井には無数に写真のような穴が開いていて、ここから燃料となる粉炭(石炭の粉)を15分間隔で投下します。これは男性の担当で、二交代制(後に三交代に)。食事の時間のみ女性と交代し、火は3~11月末頃まで休まず焚かれました。

壁に作られた煙道(左)。中の煙は煙道から煙突(右)を伝って外に出ます

一度、火を焚いたらレンガがある限り永遠に焼き続けられますし、それだけ需要があったということなんですね。

ハートみたい!

ちょうど長円の折り返し地点。この部分は外からも見えるように補修をせずに崩れたままにして残しています。

無骨なレンガ造りの窯は、とにかくかっこいい! 1日中火が焚かれ、たくさんの従業員の方々が働き、活気にあふれていた様子を想像するとワクワクします。

貴重な近代遺産を未来へつなぐ

現在、予約制で公開されている神崎煉瓦ホフマン式輪窯ですが、このように一般に公開されるまでには紆余曲折がありました。最盛期には従業員が100人もいた工場ですが、需要の減少と共に昭和33(1958)年、幕が下ろされます。その後、持ち主が変わりコンクリート会社となりました。そのため文化財的な名称は、神崎コンクリート株式会社旧煉瓦窯(旧京都竹村丹後製窯所煉瓦窯)となっています。

修復前の神崎ホフマン式輪窯(写真提供:舞鶴文化教育財団)

そのコンクリート会社も閉鎖となり、広大な土地は競売に出されることになります。しかし何年も放置されていたた土地は草に埋もれ、平成15(2003)年、3回目の入札でやっと落札者が出現。それが舞鶴市の髙橋博さんでした。髙橋さんは財団法人 舞鶴文化教育財団の理事をされておられましたが、財団としてではなく、あくまでも個人所有としての落札でした。
ゆえに髙橋さんも、まさかこの草山の中にこのような歴史的価値がある遺構があるなど夢にも思っていません。

修復前の神崎ホフマン式輪窯(写真提供:舞鶴文化教育財団)

 

高橋さんの落札から遡ること平成2(1990)年、舞鶴市の非営利活動法人 赤煉瓦倶楽部舞鶴のメンバーがこの土地の調査をしており、ここにホフマン輪窯があることを突き止めていたそうです。
土地の新たな所有者が決まったことを知った赤煉瓦倶楽部舞鶴は、髙橋さんに保存を依頼。早速、土地全般の整備をすると雑草の中から神崎煉瓦ホフマン式輪窯の全貌が現れたのです!

窯全体を調査してみると、壁の中にはレンガではなく大きな石が入っている箇所も

これにより舞鶴文化教育財団が神崎煉瓦ホフマン式輪窯の修復と運営を受け持つ事となり、平成19(2007)年に近代化産業遺産に指定。平成22(2010)年には国、京都府、舞鶴市、学識経験者、神崎ホフマン窯保存推進協議会(市民団体)らによる、国登録有形文化財(建造物)神崎コンクリート株式会社旧煉瓦窯(旧京都竹村丹後製窯所煉瓦窯)保存修理検討委員会が結成され、調査工事を経て保存修復工事がスタートしました。

切った煙突の残りを地上で展示。中がススで真っ黒

保存修復作業としては砂地に立っていることから窯全体を補強し、倒壊を防ぐために高さ24mの大煙突を始め11本の煙突を短くし、風雨を阻止する覆い屋を設営。また、窯の崩落部分はそのまま見学スペースとして活用することにし、平成25(2013)年に一部をのぞいて完成。平成28(2016)年には日本遺産に認定されました。

神崎煉瓦ホフマン式輪窯で焼かれたレンガを見る

「上敷免製」の刻印がされた日本煉瓦製造会社製のレンガ(赤レンガ博物館)

さて、せっかくならば神崎煉瓦ホフマン式輪窯製のレンガを使った建物を見てみたいと思ったのですが、実は、ここで作られたレンガがどこで使用されているのかは厳密には不明なのです。
というのもレンガには写真のように製造工場の刻印が押されますが、神崎煉瓦ホフマン式輪窯で作られたレンガには刻印がありません。しかも会社が閉鎖されて随分、時が経っているので資料が残っておらず確かなことは不明なのだとか。でも刻印が無いということは、もしかしたら軍の極秘の場所で使われていたのかな、なんてちょっぴり空想&妄想が広がったりもします。

確実に神崎煉瓦ホフマン式輪窯製のレンガを使っていると判明しているのが、工場すぐ側に立つ湊十二社の「手洗所」。明治 36(1903) 年に創業者の竹村氏らにより奉納された美しいレンガ造りの建物です。井戸の内側には「京都新町五条 竹村藤兵衛 東京田所町 薩摩治兵衛 京都深草 山田宗三郎」と刻まれているそうで、実際はこの3人の共同経営だったことが伺えます。

柱や角は丸く面取りされ、壁に透かしを設けるなど意匠が凝らされていてオシャレなんですよ。

神崎ホフマン窯の模型(作成:赤煉瓦倶楽部)

また、舞鶴市内にある「赤れんが博物館」では神崎煉瓦ホフマン式輪窯を再現したコーナーや模型、レンガも展示されています。製造方法なども紹介されているので、神崎煉瓦ホフマン式輪窯の見学と合わせて訪れてみてはいかがでしょう。

神崎煉瓦ホフマン式輪窯を見学するには

現在、神崎煉瓦ホフマン式輪窯は常時公開を行っていないため事前予約が必須です。見学を希望される方は財団へお問合せを。ただし、スケジュールにより見学希望に対応できない場合ありますので、ご了承ください。

参考資料 『神崎煉瓦ホフマン式輪窯』 公益財団法人 舞鶴文化教育財団/『若狭湾国定公園内 国登録有形文化財 近代化産業遺産 神崎煉瓦ホフマン式輪窯』

 

■■INFORMATION■■
公益財団法人舞鶴文化教育財団
京都府舞鶴市森町16番地11 高橋ビル7F 
TEL 0773-62-0577

神崎煉瓦ホフマン式輪窯
京都府舞鶴市西神崎918
見学料 300円

 

赤れんが博物館 
京都府舞鶴市字浜2011
TEL0773-66-1095
9:00~17:00(入館は16:30まで)
無休(12月29日~1月1日は休)
入館料 大人 400円、学生(小学~大学) 150円 ※ただし、市内在住か在学の学生は無料

 

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