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【京丹後市】徳川家康の舌を魅了!?細川家の危機を救った「このしろ寿司」

放映開始が少しずつ近づいてきた2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』。KYOTOSIDEでは、本作の主人公・徳川家康と京都府にまつわる記事をこれまでもご紹介してきました。今回は、海の京都エリア・京丹後市久美浜町に伝わる「このしろ寿司」と徳川家康にまつわるエピソードをご紹介します。

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このしろ寿司ってどんなお寿司?

京都府北西端の日本海に面する京丹後市久美浜町。東西に約6キロもの「小天橋」という砂嘴(さし)によって隔てられた久美浜湾が美しい、歴史と自然に彩られたまちです。この久美浜湾で獲れるコノシロは、幼魚のシンコやコハダが江戸前寿司のネタの定番として有名な魚。久美浜では保存食として昔から珍重してきました。

このしろ寿司は、11月から本格的な漁が始まり冬の冷え込みとともに旬を迎えるコノシロを使い、炒ったおからや麻の実(おのみ)、柚子の皮を腹に詰めた郷土料理です。

みぞれ寿司

大正時代に編纂(へんさん)された『京都府熊野郡誌』によると、このしろ寿司の原型は細く切ったコノシロの身をおからにまぶしたみぞれ寿司が、時代の流れとともに現在の形に変わったと記されています。同誌には「近年需要益々多く、管外に移出するもの漸次増加せうといふ」とも書かれており、久美浜以外の地域にも広まっていったことがよくわかります。成長ごとに呼び名が変わる出世魚のコノシロは、ハレの席に供される料理としても珍重されていて、「この城(このしろ)を守る」という意味を込めて結婚式の席にも出されていたそうです。

かつては町内で10軒以上が作っていたこのしろ寿司ですが、現在は2軒のみ(※)。このうち1904(明治37)年頃に店を開いた「河清(かわせい)商店」では、店主の河村隆司さんと妻の美重子さんが11月から翌年の3月までの間、手作業でこのしろ寿司を作っています。その作業風景を見学させていただきました。

※京丹後市久美浜町内では、河清商店と綿徳商店でこのしろ寿司の製造・販売を行っています。

「コノシロは、久美浜湾で獲れる20センチ程の大きさのものを使います。脂もしっかりのっていながら後味がさっぱりしていて美味しいですよ」と隆司さん。

コノシロは小骨が多いのが特徴。背開きした身をきれいに洗い流し、中骨を取って塩で〆たあと、お酢に浸して1晩寝かします。お酢から出して2~3日なじませたものに砂糖や醤油、お酢などを加えて炒ったおからを詰めて形を整えれば、このしろ寿司の完成です。

程よい脂とさっぱりとした後味が心地よいコノシロの身とおからの穏やかな味わいが口の中で広がるこのしろ寿司。辛口の日本酒が思わずほしくなる、酒の肴にぴったりな逸品です。このしろ寿司は先ほどもご紹介した通り縁起の良い料理であることから、お正月需要で京阪神を中心に出荷されるとのこと。ただ1日に仕込める量が限られているので、詳しくは河清商店までお問い合わせください。

さて、このしろ寿司が一体どのように徳川家康と縁があるのでしょうか。その歴史を紐解いてみようと思います。

このしろ寿司がお家の危機を救う?

久美浜名産のこのしろ寿司が、この地を治めていた細川家の危機を救う出来事がありました。時は、1599(慶長4)年。関ヶ原の合戦が起こる前の年のこと。豊臣家を支えていた加賀国の前田利家が死去し、徳川家康は天下取りへと動きを進めました。そんな時、利家の後を継いだ前田利長(としなが)に謀反の企てがあるとの讒言をきっかけに、加賀征伐が行われるのではないかという噂が広がりました。

同じく丹後国を治めていた細川忠興も、利家の娘を長男・忠隆の正室に迎えていたことから、前田家と同様に謀反の疑いをかけられたため、忠興と父の幽斎、弟の興元、そして久美浜城主を務めていた家老の松井康之から起請文が出され、謀反の嫌疑は無事に晴れました。この時、松井は節句の祝として久美浜の名産このしろ寿司を2樽を送り、家康から「たいそう美味であった」との礼状が下されたのです。

この礼状の写しが今も残るのが、河清商店から約1キロの場所にある「如意寺(にょいじ)」。790(天平2)年に創建した丹後有数の歴史を誇る古刹です。

1580年代、松井康之は久美浜城を築城するため、如意寺の境内にそびえていた大杉を所望。この大杉は周囲七抱えもある大木で、開山時に植えた由緒ある古木ということから「伐ること能(あた)わず」という言い伝えもあり、時の住職は訳を述べて断りました。康之はその後諸方に大木を求めましたが如意寺の大杉に勝る大木を見つけることができず、再び大杉を所望します。住職も抗いきれずついに大杉は伐採され、後には切り株だけが残りました。

一方、康之も無理を言って大木を譲り受けたことを気に掛けていたようで、その感謝の印として家康の礼状を如意寺に譲り渡したのです。

徳川家康の礼状の写し(提供:如意寺)

現在、如意寺にはこの家康の礼状の原本はなく、江戸後期に作成された写しのみが残っています。なぜ原本は残っていないのでしょうか。それには理由があります。

江戸時代後期の1800年前後のこと。当時住職を務めていた祐道上人(ゆうどうしょうにん)による境内の大整備が行われたとき、久美浜の代官・塩谷大四郎(しおのや だいしろう)から多大な寄付を受けました。その後塩谷は、九州の豊後・豊前・日向の天領を治める日田代官に赴任し大規模な土木事業を行いましたが、これら工事の総指揮を土地の実力者に当たらせるため、如意寺が所蔵していた家康の文書を協力者へのおみやげとして携えたのではないかと研究者の間で推測されています。

「貴重な家康の礼状を譲ってほしいとお願いされた祐道上人も、多大な寄付を受けたご恩もあって、きっと断り切れなかったのでしょう。せめて写しだけでもと、細筆で克明に写し取ったものが今も当寺に伝わっています。久美浜と中央政界との結び付きを表すこの礼状は、とても興味深いものだと感じています。」(如意寺住職の友松祐也さん)

熊本にも伝わるこのしろ寿司の文化

熊本県に伝わる郷土料理「このしろの姿寿司」(出典:農林水産省Webサイトhttps://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/kono_shirono_sugata_zushi_kumamoto.html

後に、松井康之の子孫は細川家の国替えによって肥後国八代の城主となりますが、八代海沿岸部をはじめ天草灘や有明海に面した地域にもこのしろ寿司を食べる文化が伝わっています。こちらはおからではなく寿司飯をお腹に詰めたものが一般的ですが、八代海沿岸の一部地域では久美浜と同様におからを詰めたこのしろ寿司があり、吉野寿司(うのはな寿司)と呼ばれています。もちろん確証はありませんが、久美浜のこのしろ寿司の文化が遠く離れた熊本に伝わったのではないかと考えると、なんだかロマンが広がりますね!

徳川家康を魅了した久美浜のこのしろ寿司。この冬にぜひ一度食べてみてはいかがでしょうか。

■■INFORMATION■■
河清商店
TEL:0772-82-0012
住所:京都府京丹後市久美浜町2905

如意寺
住所:京都府京丹後市久美浜町1845
TEL:0772-82-0163

 

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