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奈良時代最大のミステリー? 未完の都「恭仁京」の謎に迫る

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京都府木津川市加茂町。かつて瓶原(みかのはら)と呼ばれた地域に、山城国分寺という奈良時代の寺院跡があります。建物こそありませんが、残された立派な礎石が、国内随一の金堂と七重塔を持つ壮大な寺院だったことを物語ってくれます。実は約1300年前、この地に都があったことを知っていますか? その名は、恭仁京(くにきょう)。わずか3年余りで未完成のまま廃都となった「幻の都」なのです。

平安京、長岡京より前に造られた知る人ぞ知る都

大伴家持など多くの歌人が歌に詠んだ風光明媚なロケーション

恭仁京がつくられたのは、天平12年(740年)のこと。平安京や長岡京よりも古く、京都府内初の本格的な都といわれています。この時代は歴史的にも重要な時期で、かの有名な「墾田永年私財法」も恭仁京で出された法令。にもかかわらず、恭仁京については教科書でもさらりと触れられる程度で、「知る人ぞ知る」というのが正直なところ。

京都府教育庁 文化財保護課の古川さん(左)と藤井さん(右)

1973年に文献調査が始まって以来、今年は恭仁京の本格調査開始50年という節目の年。長らく発掘調査を担ってきた京都府教育庁 文化財保護課のお二人にご協力いただき、謎多き恭仁京の姿に少しだけ迫ってみたいと思います。

天変地異に流行病……混乱を極めた聖武天皇の時代

山城国分寺跡に残る七重塔の礎石。奈良時代の史跡がこれほどしっかり残っているのは珍しい/写真提供:(一社)木津川市観光協会

恭仁京を造営したのは、「奈良の大仏さん」で有名な聖武天皇です。なぜ三代続いた平城京をあえて離れ、新たな都を造ったのか?その確かな理由はいまだ謎ですが、当時の日本は大きな地震や飢饉が立て続けに起こり、混乱の只中だったそうです。遷都の3年前には、天然痘が大流行。人口の15%が亡くなったといわれるほどのパンデミックに追い討ちをかけたのが「藤原広嗣の乱」でした。

度重なる災厄と多くの人の死に直面し、聖武天皇は「天皇である自分に徳が足りないせいだ」と自分を責めるように。そこで心機一転、新天地で新しい国づくりを行い、災いの連鎖を止めたかったのではないかと考えられています。

専門家お墨付きの理想的な都だった恭仁京

現在の恭仁宮跡。のどかな田園風景で、秋にはコスモスが目を楽しませてくれる

新しい国の始まりの場所として、恭仁を選んだ聖武天皇。彼の片腕だった橘諸兄(たちばなのもろえ)の本拠地に近かったことも理由に挙げられますが、他にも理由があったはずです。

ひとつは、木津川の存在。木津は、もともと木の港(津)という意味です。奈良時代には「泉の津」と呼ばれていましたが、全国から平城京に木材を運ぶ重要なルートでした。海のない地域としてはやはり、都を造るうえで物流の要となる木津川を抑えておきたいところですよね。

もうひとつは、三方を山に囲まれた起伏のある地形です。当時、理想とされる都の構造は、最も標高の高い位置に天皇のいる宮があることでした。その意味では、恭仁京は都を見下ろす高い位置に宮があり、天皇の権威を視覚的に表現できるベストな地形。藤原京や平城京の発掘調査を行ってきた研究機関の人たちをして、「これ以上の立地を持つ古代の都は他にないほど素晴らしい」と言わしめたほど、理想のロケーションだったのです。

恭仁宮?恭仁京?混同されがちな「宮」と「京」を解説

調査であらたな事実が分かるたび、イメージを修正していく(復元イメージ)

ところでみなさん、「宮」と「京」の違いをご存じですか?(恥ずかしながら、筆者は知りませんでした…!)たとえば都の変遷において、平城京や平安京は「京」と呼ぶのに、近江大津宮や紫香楽宮は「宮」ですよね。なぜ??

「宮」とは、天皇の住まいや政(まつりごと)を行う庁舎のある区域のこと。対して「京」とは、宮を中心に、役人たちの住居や市場などの商業施設を含む都市全体を指しています。つまり、ひとくちに遷都といっても、必ずしも都市そのものを遷すことではなく、基本的には天皇と政治機能が遷ることを意味していたんですね。

そして現在のところ「恭仁宮」については発掘調査によって、その構造が少しずつ明らかになりつつあるところ。しかし「恭仁京」については、まだその遺構が十分に見つかっておらず、ほとんどが謎のベールに包まれているのだそうです。

平城宮からわざわざ大極殿を移築したワケ

2020年4月1日現在、明らかになっていた恭仁宮跡の範囲

調査から分かった恭仁宮の大きさは、東西に約560m×南北に約750m。内部は、天皇の住まいである「内裏」や儀式を行う「大極殿(だいごくでん)」、役人たちが働く「朝堂院」などで構成されています。なかでも最も重要なのが大極殿。古代の宮において中核となる建物です。もともとは中国王朝の「太極殿」をモデルにしたもので、「太極」とは北極星を表す言葉なのだとか。

壮大な姿を誇る大極殿。廃都後は山城国分寺の金堂として使用された(復元イメージ)

驚いたことにこの大極殿、なんと平城宮にあった大極殿を解体して移築したもの!「続日本紀」には大極殿とその周囲をめぐる回廊を平城から移築したとの記録があり、発掘調査によってそれが裏付けられました。それにしても、輸送手段の限られた奈良時代にこれだけ大規模な建物をわざわざ移築?むしろ新しく造った方が早いのでは…なんて思ってしまいます。

「当時の価値観においては、大極殿=天皇というぐらい大切なもの。国の中心にひとつしかあるべきでない、唯一無二の存在だったんです。そもそも平城宮にあった大極殿も、もとは藤原宮から移築したものなんですよ」と、さらなる驚きの情報が。なるほど、手間と時間を要してでも運んでくるべき理由があったのですね。

大極殿 北西隅の礎石。奈良時代から全く位置が動いていない貴重なもの

恭仁宮跡には、大極殿の礎石(建物の柱を載せる土台となる石)が現在も残っています。その石材を調べたところ、奈良の飛鳥で採掘されたものや、古墳時代から飛鳥時代の期間にしか使われていなかった石であることが分かり、藤原宮から代々続く移築の歴史が証明されたのだとか。

ちなみに、近年奈良の平城宮跡に復元された「第一次大極殿」は、まさに恭仁宮へ移築した大極殿のもとの姿!その復元にあたっては、柱と柱の間隔などに恭仁宮の調査成果が大きな役割を果たしたそうです。

5年間で都を4回もお引っ越し!の謎

恭仁京への遷都後間もなく、紫香楽へ通じる「東北道」を整備したそう

調査開始から50年、いまだ謎だらけの恭仁京ですが、一番のミステリーといえば当時の聖武天皇の行動でしょう。恭仁へと都を遷したわずか3年と3か月後、都が完成もしないうちに難波宮へと遷都してしまうのです。さらにその翌年には紫香楽宮へお引っ越し、そして最終的には同年のうちに平城京へ戻ってしまうという……。史実だけを見れば、なんとも行き当たりばったりというか、迷走というか。実際、この5年間を「彷徨五年」と呼ぶ専門家もいるほどです。でも、果たして本当にそうだったのでしょうか?文化財保護課のお二人は、違う見解をお持ちでした。

「紫香楽宮に大仏造立の詔を出したことからも、聖武天皇は政治の中心を恭仁におきながら、紫香楽を仏教の都に、さらに難波を商業の都として、国家の機能を分散させようとしていたんじゃないかという考えもあります。なかには極端な意見の人もいて、恭仁宮は難波と紫香楽の中間地点として機能しただけの宮だったのではと言われることも。でも、ずっと発掘調査をしてきた贔屓目もあるかもしれませんが、国の中心である大極殿を藤原から平城に、そして恭仁へとわざわざ遷しているというのは、やはりこの場所が新しい国の中心なんだという聖武天皇の強いメッセージだったのではと思っています」

研究者泣かせ?次々に予想を覆す恭仁宮の構造

発掘された大極殿院 築地回廊の一部。平城京からの移築を裏付けるものとなった

恭仁宮の面白さはどんなところですか?と尋ねると、「常識が通用しないところですかね」と古川さん。多くの発掘調査では概ね設計図が分かっているので、「ここを掘ったらこれが出るはず」という予想のもとに発掘を行います。ところが恭仁宮では、ことごとくその予想を裏切られるというのです。

たとえば、大極殿の南側に役人たちの働く庁舎が建つ「朝堂院」という区画があります。他の宮では8〜12堂の庁舎が建ち並ぶ広大なエリアですが、恭仁宮の朝堂院は、あり得ないほどに小さいという事実が判明しました。「朝堂院には多くの建物が整然と並んでいるはず」と思い込んでいた調査員たちは、なかなか発見することができず苦労したのだそう。他にも、通常はひとつしかないはずの「内裏」が2つあるなど、これまでの宮にはない独自の構造が満載の恭仁宮。

「カッコよく言えば遺跡と格闘したり、土と向き合って対話して、ようやく色々と分かってくる。しんどいけれど、そこが面白いんです」と話してくださいました。

発掘調査は何期かに分けて行われ、その都度資料にまとめられる。この分厚さ!

短命でありながらも、聖武天皇の想いが強く反映された恭仁京という都。発掘調査から浮かび上がったのは、混迷の世の中で懸命に政治を行い、なんとかして国を建て直そうともがいた一人の人間の姿でした。そしてまだまだ続く発掘調査は、未来の私たちに何を教えてくれるでしょうか。想像するだけで、胸がワクワクしますね。

★2023年は恭仁京のイベントが目白押し!

本格的な調査開始から50年を迎えた恭仁京跡。よりディープな恭仁京の姿に迫るアカデミックなフォーラムから、お子様と一緒に楽しめる体験型イベントまで、たくさんのイベントが目白押しです!

【恭仁宮フォーラム】
文化庁京都移転と、恭仁宮跡発掘50周年を記念した学術フォーラム
日時:令和5年2月4日(土)10:00~16:00
会場:国立国際会館 Room A
料金:無料(定員500名)※1月30日までwebで申込み受付

詳しくは下記のURLをクリックください
恭仁宮フォーラム – 史跡 恭仁宮跡 (kunikyu.com)

【恭仁宮を探検しよう】
専門職員のガイド付きで恭仁宮を探検します
日時:令和5年2月5日(日)13:00~15:00
会場:史跡恭仁宮跡(恭仁小学校前集合)
料金:無料 ※当日申込みも可能ですが、お待ちいただく可能性があります

詳しくは下記のURLをクリックください
恭仁宮を探検しよう – 史跡 恭仁宮跡 (kunikyu.com)

【恭仁宮を体験しよう】
奈良時代の瓦造りを体験、バッジ作り体験など、お子様にも楽しんでもらえるコーナーを用意
日時:令和5年2月18日(土)・19日(日)10:00~18:00
会場:イオンモール高の原 2階平安コート
料金:無料 ※当日参加制。希望が多い場合は整理券を配布します

 

■■取材協力■■
京都府教育庁 指導部 文化財保護課 記念物係

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